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1月の御法語

本日よりお正月休みが明け毎月のお参りを再開いたしました。

そこで今月の御法語をご紹介します。


一蓮托生


 会者定離は常の習い、今始めたるにあらず。何ぞ深く歎かんや。宿縁空しからずば同一蓮に坐せん。浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れは暫くの悲しみ、春の夢のごとし。信謗ともに縁として、先に生まれて後を導かん。引摂縁はこれ浄土の楽しみなり。

 それ現生すら猶もて疎からず。同名号を称え、同一光明の中にありて、同聖衆の護念を蒙る同法、尤も親し。愚かに疎しと思し食すべからず。

 南無阿弥陀仏と称え給えば、住所は隔つといえども、源空に親しとす。源空も南無阿弥陀仏と称えたてまつるが故なり。念仏を縡とせざる人は、肩を並べ、膝を与むといえども源空に疎かるべし。三業、みな異なるが故なり。


現代語訳


 会う者が必ず別れるということは世の定めであって、今に始まったことではありません。どうして深く嘆くことがあるでしょうか。過去の因縁が確かなものであるならば、〔極楽に往生して〕同じ蓮の台に座ることができるでしょう。浄土での再会は間もなくのことです。今の別れは、しばしの悲しみに過ぎず、春の夜のはかない夢のようなものです。信じることも謗ることも共に縁として、先立つ者が残された者を導きましょう。縁ある人を迎え取ることは浄土での楽しみです。

 そもそもこの世にあってさえ浅い関係ではありません。すなわち、同じ阿弥陀仏の名号を称え、同じ阿弥陀仏の光明の中にあって、同じ〔極楽の〕聖衆のお守りを受け、同じ教えを信じる者同士は、この上なく親しい間柄なのです。決して縁が薄いなどと誤解されてはなりません。

 南無阿弥陀仏とお称えになれば、住むところは離れていても、私とは親しいのです。私も南無阿弥陀仏とお称えするからです。念仏に専念しない人は、たとえ肩を並べ、膝を交えていても、私との縁は浅いのです。身口意の三業すべてが〔私とは〕かけはなれているからです。


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