六月のお参りの際に読む御法語を紹介したいと思います。
慈悲加祐(じひかゆう)
まめやかに往生の志ありて、弥陀の本願を疑わずして、念仏を申さん人は、臨終のわろき事は、大方は候うまじきなり。その故は、仏の来迎し給う事は、もとより行者の臨終正念のためにて候うなり。それを心得ぬ人はみな、「我が臨終正念にて念仏申したらん時に仏は迎え給うべきなり」とのみ心得て候うは、仏の願をも信ぜず、経の文をも心得ぬ人にて候うなり。
その故は、称讃浄土教に云く、「仏、慈悲をもて加え祐(たす)けて、心をして乱らしめ給わず」と説かれて候えば、ただの時によくよく申しおきたる念仏によりて、臨終に必ず仏は来迎し給うべし。仏の来迎し給うを見たてまつりて、行者、正念に住すと申す義にて候。
然るに、前の念仏を空しく思いなして、よしなく臨終正念をのみ祈る人などの候うは、ゆゆしき僻胤(ひがいん)に入りたる事にて候うなり。されば、仏の本願を信ぜん人は、かねて臨終を疑う心あるべからずとこそ覚え候え。ただ当時申さん念仏をば、いよいよ至心に申すべきにて候。
訳
真実に往生の志があり、阿弥陀仏の本願を疑うことなく念仏を称える人に、臨終の心が乱れることは、まったくありえないことです。そのわけは、仏が来迎されることは、そもそも念仏者を臨終に正念とさせるためだからです。それを心得ていない人はみな、「自分が臨終に正念であった上で念仏を称える時のみ、仏はお迎えになるはずだ」とばかり考えていますが、これは、仏の本願も信じることなく、経典の文言も理解していない人であります。
そのわけは、『称讃浄土教』に、「阿弥陀仏は慈悲をもって〔臨終の人を〕助けて、その心が乱れないようになさる」と説かれていますので、普段よくよく称えておいた念仏によって、臨終に必ず仏は来迎されるのだからです。仏が来迎なさるのを見て、念仏者が正念に留まるという道理なのです。
ところが常日頃の念仏を無意味だと思いこんで、根拠もなく臨終の正念だけを祈る人などがありますが、これは大変な考え違いに陥っていることになります。ですから、仏の本願を信じる人は、常日頃から臨終〔の正念〕を疑う心があってはならないと思われます。ただ、その時その時に称える念仏を、ますます真心を込めて称えるべきなのです。
常日頃から共にお念仏を申していきましょう。
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