五月に読む御法語を紹介いたします。
二行得失
往生の行、多しといえども、大いに分かちて二つとし給えり。一つには専修、いわゆる念仏なり。二つには雑修、いわゆる一切のもろもろの行なり。上にいう所の定散等これなり。
往生礼讃に云く、「若し能く上の如く念々相続して、畢命を期とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」。専修と雑行との得失なり。
得というは、往生する事を得。謂く、「念仏する者は、十は即ち十人ながら往生し、百は即ち百人ながら往生す」というこれなり。
失というは、謂く、往生の益を失えるなり。雑行の者は、百人が中に稀に一二人往生する事を得て、その外は生ぜず。千人が中に稀に三五人生まれて、その余は生まれず。
専修の者は、皆生まるる事を得るは、何の故ぞ。阿弥陀仏の本願に相応せるが故なり。釈迦如来の教えに随順せるが故なり。雑業の者は生まるること少なきは、何の故ぞ。弥陀の本願に違える故なり。釈迦の教えに随わざる故なり。
念仏して浄土を求むる者は、二尊の御心に深く適えり。雑修をして浄土を求むる者は、二仏の御心に背けり。
善導和尚、二行の得失を判ぜること、これのみにあらず。観経の疏と申す文の中に、多く得失を挙げたり。繁きが故に出ださず。これをもて知るべし。
現代語訳
往生するための行は多いけれども、〔善導和尚は〕大きく分けて二つとなさいました。第一は専修、つまり念仏であります。第二は雑修、つまり〔念仏以外の〕あらゆる修行であります。前に述べた定善と散善がこれであります。
〔善導和尚の〕『往生礼讃』には「もしもよく、前に述べたように、念仏を続けたまま命を終えることができた人は、十人いればそのまま十人が往生し、百人いればそのまま百人が往生する」とあります。専修の得と雑修の失とを述べた文です。
「得」というのは、往生することを得るということです。すなわち「念仏する者は、十人が、そのまま十人すべて往生し、百人が、そのまま百人すべて往生する」というこのことです。
「失」というのは、すなわち往生という利益を失うということです。雑修の者は、百人の中で稀に一人、二人、往生することができますが、その他の者は往生できません。千人の中で、まれに三人、五人が往生しますが、その他の人は往生しません。
専修〔念仏〕の者がみな往生することができるのはなぜでしょうか。阿弥陀仏の本願と一致しているからであり、釈尊の教えに随うからです。雑修の者が往生することが少ないのはなぜでしょうか。阿弥陀仏の本願に反するからであり、釈尊の教えに随わないからです。
念仏を行って極楽浄土を求める人は、釈迦・弥陀二尊の御心に深く適っています。雑修を行って浄土を求める人は、二仏の御心に背いています。
善導和尚が二行の得と失とを判定されたのは、これに止まりません。『観経疏』という書物の中に、多くの得と失とを挙げておられます。多いので引用はいたしません。ここでの説明によってご理解下さい。
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