四月になりましたので、今月のお参りの際に読む御法語を紹介したいと思います。
難値得遇
それ流浪三界のうち、何れかの界に趣きてか釈尊の出世に遇わざりし。輪廻四生の間、何れの生を受けてか如来の説法を聞かざりし。
華厳開講の莚にも交わらず、般若演説の座にも連ならず、鷲峰説法の庭にも臨まず、鶴林涅槃の砌りにも至らず。我れ舎衛の三億の家にや宿りけん。知らず、地獄八熱の底にや住みけん。恥ずべし、恥ずべし。悲しむべし、悲しむべし。
まさに今、多生曠劫を経ても生まれ難き人界に生まれ、無量億劫を送りても遇い難き仏教に遇えり。釈尊の在世に遇わざる事は悲しみなりといえども、教法流布の世に遇う事を得たるは、これ悦びなり。譬えば目しいたる亀の、浮き木の穴に遇えるがごとし。
我が朝に仏法の流布せし事も、欽明天皇、天の下を知ろしめして十三年、壬申の歳、冬十月一日、初めて仏法渡り給いし。それより前には如来の教法も流布せざりしかば、菩提の覚路いまだ聞かず。
ここに我等、いかなる宿縁に応え、いかなる善業によりてか、仏法流布の時に生まれて、生死解脱の道を聞く事を得たる。
然るを、今、遇い難くして遇う事を得たり。徒らに明かし暮らして止みなんこそ悲しけれ。
訳
そもそも三界という迷いの境涯を流れさすらうなか、いかなる境界にあったがために、釈尊の出現に巡り遇わなかったのでしょうか。四種の生を巡る間、いかなる生を受けたがために、釈迦の説法を聞かなかったのでしょうか。
『華厳経』講説の席にも加わらず、『般若経』説示の座にも列せず、霊鷲山での『法華経』説法の場にも臨まず、鶴林での釈尊涅槃の場面にも出会えませんでした。私は舎衛国の、〔釈尊に無縁であった〕三億の家に生を受けていたのでしょうか。いったい、八熱地獄の底にでも沈んでいたのでしょうか。本当に恥ずべきことです。本当に悲しむべきことです。
〔ところが〕まさに今、極めて多くの生涯を繰り返しても生まれ難い人間の境界に生まれ、極めて長い年月を送っても遇い難い仏教に出遇いました。釈尊の在世に遇わなかったことは悲しみでありますが、その教えが伝わっている世に遭遇することができたのは、まことに喜びであります。たとえば、盲目の亀が、大海に浮かぶ木の穴に、偶然首を入れるようなものです。
わが国に仏法が伝わったこともその通りで、欽明天皇が日本国を統治なさって十三年目、壬申の年(五五二年)の冬の十月一日に、初めて〔百済から〕仏法が渡ってきましたが、それ以前には、釈尊の教法も広まっていなかったので、覚りへの路はまだ誰も耳にしていませんでした。
ここに我々は、どのような過去世の良縁に報われ、どのような善業によって、仏の教えが行きわたる時世に生まれて、迷いの境涯を解脱する道を聞くことができたのでありましょうか。
それを今、遇い難い身で出遇うことができたのです。無益に月日を送って人生が終わるとしたら、残念なことであります。
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